
第三回 読書会 @製図室
ヴェンチューリってなにもの!?ってな感じで読んでみようと思ったこの本。
「なぜ名著と呼ばれるのか?」みたいなのも議題にしようかな?って思ってたけど、
その考えが間違ってた。読み終えたらわかります。
名著です。これは。まず読みやすい。
ということで今回はR.ヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」を課題図書に。
まず多様性と対立性の用語の理解。
「多様性」
設計をしていく上での矛盾を排除していくモダニズムへの批判をこめて
一義的には決めきらない、「白」と「黒」の二項対立ではない(グレーゾーン)設計を目指す。含みを持たせる。
解釈にしろなんにしろ「いろいろあるのがいいよね」というスタンス。
成瀬・猪熊設計事務所の「一通りの使い方ではなくて、使用者によって何百通りの使い方が生まれるような空間」という言葉が思い出される。これはヴェンチューリのその先の話なのだろう。
「対立性」
「白」か「黒」のどちらかではなく、どちらもありうるというスタンス。
複数のものが存在することによって緊張が生まれ、設計はより濃密なものになる。
スケールの行き来→空間の流れ
しかし、ここでの対立性はなんでもありの空間ではないということ。
どちらかというように決めきらない「批判的な」スタンスに通ずる考え。
青木さん、隈さんなどの現代の建築家の多くが条件の矛盾を解決した先によりよい建築・より新しい発見が存在するということを言っている。
現代の考えは、モダニズムやポストモダンの時代と比べ共通の物語を通して表現するものがない。特にポストモダンの時代は形式でものを作り、それにプログラムをあてはめる感覚であったのではないか。その時代にヴェンチューリがこのような宣言をしてことはとても素晴らしいと思うし、現代の建築家がやっていることはすでにヴェンチューリが言っていたことなのだと思うと(現代の建築家が影響を受けているのかもしれないが)彼のすごさがわかる。
「less is bore」
ミースが提示した「less is more」に対してのヴェンチューリの見解。
ヴェンチューリは本書において一貫してモダニズムなるものを批判しており、ミースやコルビュジエ、ライトなどもその中に位置づけられているはずである。
しかし、本書はミースはともかく、コルビュジエの作品に関しては、批判の対象になっているものはほとんどなく(むしろ皆無と言ってもいいかもしれない)
ただ単にモダニズムに対してのカウンターカルチャー的なものに終わらない意気込みがうかがえる。
ヴェンチューリはコルビュジエらによって唱えられた本来素晴らしいものであったはずのモダニズムが形骸化していることに警鐘を鳴らしているのである。
もちろん時代が流れていることもあり、当時のモダニズムの考えでは限界が生じる。
そのような中、モダニズムを批判的にとらえ、これからの時代のありかたを提唱しているのである。
本書ではかなりミースの批判が激しいが(笑
ただ単にミースの「less is more」というものを批判しているのではなく、ミースという偉大な隠れ蓑に潜んで、無批判に「less is more」と唱えているフォロワー達を痛烈に批判しているのであると考える。
もちろん、ヴェンチューリは「less is more」の時代は終わったと言いたいのであると思うが、ミースの作品に価値がないとは言えないのではないか。
そこで形態の障害になるものを排除することなく受容する道をヴェンチューリは選ぶ。
「or」 と 「both and...]
「それとも?」と「にもかかわらず」
3章で「or」な建築が提示されている。
これは多様性につながってくるもので、グレーゾーンのようなものである。
・あいまいさ
・一義的に決めきらない
このことによってより建築に幅がでてくるのである。
そして4章には「both and」な建築がある。
これは対立性の話が強く、多重性があり、このことによって緊張感のある設計が生まれるということである。
これはどちらかがいいというわけでも、どちらかが悪いというわけでもない。
ヴェンチューリもここではどちらもあったほうがよいとしているが、
「or」的な考え方はどちらとも決めきらないことになり、本当にあいまいなものになってしまいそうである。
「both and 」は多重性を持たすものの、使用者に意味を押し付けてしまうことになってしまいそうである。
ヴェンチューリはどちらもあり的スタンスであったが、その先のスタンスはないか・・・・。
「or」と「both and」を分けない手はないか(笑)
またはどちらでもない方法。
また「慣習」の扱いに関して魅力的な考察があった。
凡庸な建築家は「慣習」を忌まわしきもののように切り捨てる。
しかし、慣習というものはすでに建築にとって切っても切れないものであるのだからそれを受け入れて、「慣習」を新しい視点から評価すべきであるという。
デザインにおいて、また物を作り出す分野において
すでに誰かがやっている
ということはほんとによくあること。
しかし、新たに自分の解釈を加えてそれを超える方法は、そこまで珍しい考えではないが、とても素晴らしい発想であると思う。
要は超えればいいんでしょ的スタンス。
そのためには歴史の勉強は不可欠。
また本書では当時、看板のようなものが乱立してなりたっているタイムズスクエアを例にこのような都市は複雑でおもしろいとした。
しかし、これが無批判に慣習と化してしまった現在はタイムズスクエアのコピーがどの都市にも広がっている。
しかし、この慣習を結果的に慣習を超えてオーバードライブ的に育った都市として東京があげられ、この都市は非常に複雑で固有性を有するものとなった。
これは単に結果論であるので、参考にはならない。
しかし、このように慣習を新たな視点で扱うことによって、その土地の固有性を扱い、濃密なものができるのではないか。
しかし、都市を考えるときに「都市計画屋」はある都市のサンプルを無理やりほかの都市にあてはめるという行為を無批判に行っている。
そう考えると、「慣習」を新たな視点で解釈できるのは、
歴史や、環境、計画などの様々な分野を横断し、一見どれも中途半端に見える建築家である。
このようにいろんなジャンルをかいつまんだ上で「統合」することは非常に大事になってくる。
どのようにアプローチをすればいいのかは謎であるが(笑)
今後考えていくテーマとしてはとてもおもしろくもある。
ここまで書いて力尽きようと思います。
また続きは書きたいと思います。
読書会を終えて
全体的に議論にはなってなかったなとは思います。
個人的な反省点
はじめに「用語」の理解をした意図としては、議論をする上でお互いの認識が異なっていると、話にならないと思い共有から始めました。
しかし、各々しっかり本を読んできているということを前提として議論を行うとするならば
齟齬が起きた時点で、必要なら用語について話し合うというスタンスがありえたのではないかと思っています。
それには各々しっかり本を読んでくるという前提が不可欠であり、今回の読書会ではそこまで至ってなかったと思います。
もっと自分の切り口とか問題意識をはっきりしていかなければいけないとも思います。
問題意識とかはそんなに難しい話じゃなくて、「うさんくさい」のが気になるとか、「既視感」というのが気になるとか。
そこから膨らませるってのは?情報化もしかり。
また、ただ単に読書会をして満足しているのではなく、話し合ったものを踏まえてレポートのようなもの(ブログとは別に、別の切り口で)を作成したいです。
議事録のようにブログを書くのは、ただ読書会をなぞっただけのものであまり意味もなく(議事録としてなら意味はあるけど)発展しないのではないか。
しかし自分の言葉で興味を持ったことを書くと、自分の問題意識・興味のあること・切り口・スタンスが明確になってくると思います。
というより、スタンスがなければ書けない。
それを他人と比べて、差異を見つけていくことを通して、自分の興味があることなどをはっきりしていくことができるのではないかと思います。
こんなことを踏まえて次回につなげていければいいと思います。